命の自由さ。

いじめを苦にした自殺をはじめとして、我が国ニッポンは自殺大国とまで言われている昨今。
人間社会の教義として自殺ってのは悪いこととして教育されてきてはいるけれども、それはあくまでもそういった教育や定義、道徳観を植え付けられているからでそれを悪とする理由って実はそんなに根拠ないよなぁと思わなくもない。

まぁ確かに、人が亡くなるというと周囲の人や親族家族恋人やら職場の人間やら、心的ストレスなんかのコストは相応に発生するので可能な限り抑えたいところでもあるけれども、人間生きてるものはそのうち確実に死ぬ。
タイミングとかきっかけは様々だろうけれども、ほっといても老衰で死ぬ。
つまり確実にそのコストは発生しうるわけで、ある程度は人生設計というか自分の生活や計画、生計の中に考慮しておいてもいいコストと言えなくもない。

まぁ老衰で死ぬのであれば時期の予測が出来たりそのコスト発生に対する準備期間の設定も出来るだろうから、人が亡くなったあとの手続きや資産の相続や譲渡などを段階的に行っていくことも出来るし、葬儀をするにしてもある程度手前の期間からそこそこ準備したりと発生するであろうコストを分割したり細分化することによって最小に抑えることも可能であろう。

そういった面から見ても、自殺なんかは周囲の承認なしに唐突に人が亡くなるので心的ストレスや手続き等時間的物理的金銭的コストのインパクトは非常に大きくなる。

 

っつーかまぁそういう話じゃないんだろうけれどもさ。

自殺という行為が現状の社会では基本的には否定的に捉えられる行いではあるけれども、その根拠やその思想に対して精査してる人ってのはそんなに少ないものなのかなと感じることは多々あるわけで、まぁその辺の話をすると尊厳死の選択が出来るようにっていう運動なんかは確実にこの辺の考え方なんだろうけれども。

 

 

数ヶ月前に、ツイッターで
「長期の北海道ツーリングの末にダムから身投げしたと思われるアカウントの話」
が流れてきたことがあった。
彼に直接的に関わった人や、そのフォロワ、リツイートで見聞きしてコメントをしている第三者のアカウントなどいろいろなところに波及はしていたようだけれども、どうも、こう本人の選択に対して「なぜ」「どうして」「悲しい」などの悲観的なコメントが多かったことに自分はどうしてもモニョモニョするものが残った記憶がある。

本人が長い時間をかけて死に場所を探して旅をし、その結果そこを選んだという行為なのだ。
見ず知らずの彼ではあるけれども、なんとなくその行いを否定したくはないなとどこかで思ったのかもしれない。

現場の状況の見聞をしているツイートがあって
「荷物はそのまま、バイクもそのまま。ダムの上にヘルメットが置いてあった」
というものだったと記憶している。
彼がよほど几帳面だったのであれば荷物がそのままバイクにくくりつけられていたという状況にも説明はつくだろうが、現地にいたってなお身投げに躊躇するようであれば、自分ならそこで荷物を広げてコーヒーの一杯でも沸かして一度人生の回顧をしそうではあるよな、と実に勝手ながら想像をしてみた。

つまり、勝手な想像でしかないけれども、彼の身投げにはためらいが無かったのだろうと感じた。

身を投げ出した直後に、はたとやり残したことを思い出しても、もう遅くはあるけれど。

そうして彼は自分の命の最後を、自分の望んだタイミングで、自分で選んだ場所で閉じたのだろう。
こういってはなんだけれども、うらやましさすら覚える話である。

これこそが本当の自由であり、寿命という時間的束縛すらも追いつけなかった自分の命を自分自身が自由に扱ったという誇り高い行為だとみることも出来る。

 

まぁ、ダム下流に遺された遺体の処理なんかで他人の手を煩わせるという部分や事件として扱われる以上は一人の勝手な行為に対して多数の人間に迷惑が及ぶようになっていることは避けられはしないけれども。
そこらへんは社会のシステムがそうなっているのだから、ある程度は仕方ないことだろう。
人間が死ぬということは本来受け入れられないとする社会なのだし。

そういう部分もあって、自殺は勝手な行為だと非難する人もいるだろうけれども、それは非難するほうの勝手でもある。

身投げした彼がいたことを、僕はこれからもたまに思い出したりしていきたいと思う。