千反田えるの憂鬱。

我が家ではテレビを大きくしたことによって食後のアニメ鑑賞が捗る環境が出来たことことにより、少し前のアニメをハイペースに消化していたりするのだけれども、昨晩「氷菓」を観終えた。

観終えただけならばわざわざ感想で記事を立てたりはしないのだけれども、どうしても22話、つまり最終話で唐突な重さを突きつけられたのが気になった。

 

というのも、22話はその最後の色気のあるシーンとそのままの幕引きの部分が語られがちなのだけれども(ある程度検索した)、個人的にはどうしてもその「村社会問題」の部分から見え隠れする千反田家の名前の大きさと、それを背負い込んだ千反田えるの振る舞いに目が行ってしまう。

22話は一貫して学校の外の話であり、学校の外の千反田家の名前が強大に作用する地域での話だ。
学校や会社、制服を着ているときの顔と地域や地元、プライベートのときの顔というものを持ち合わせていたりする人物は少なくはない。

普段高校の制服に身を包み古典部部長として生活している千反田えるは、その名前こそ「あぁ千反田さんってあの千反田さん」という反応こそあれども、だからといって特別に扱われる事はほとんどないか、もしくは知らない人のほうが多いという学生生活を精一杯堪能しようとしているようにも思えてくるわけだ。

それまでは「私気になります!」と半ば強引に、無邪気に振る舞うのも、育ちの良さから他人に悪意を持とうともしない脆弱さを隠そうとしないもの、実はすべてその制服を着た対等な人々の中であるからこその振る舞いであって、千反田えるという名前は個人を認識するためだけの記号としてしか扱われていない。
実際高校や会社などはその組織の中で与えられた役割以上の権力や力は本来は発揮出来ないわけであるし、そういった意味では学校の中で名前の持つ力が抑え込まれるというのは正しい作用ではある。

しかしこの22話で目の当たりにするのは、学校の外に於ける、地域の名家であり名前を出すだけで「調整」が通るだけの力を持った、言ってしまえばマツリゴト、地域の政治に関与出来るだけの強大な力を持った存在である千反田えるという人物を描き出している。

その学校の内外でのコントラスト、言ってしまえばギャップが非常に重い。

昔、この辺りは南北に分かれていました。
北が私達の村、南は別の村で、土地争いや水争いがあったようです。

それももう昔の話ですが、ああいう神事の際に無断で入るのは今でも揉め事の種です。

というセリフが劇中にあるが、これは未だに地方にいくと当たり前のように残っていたりするし、地方在住の身としてはスッと真顔に戻ってしまう生々しい話でもあるのだ。

 

私はここに戻ることを嫌だとも悲しいとも思っていません。
千反田の娘として、相応の役割を果たしたいと思っています。
そのための方法をずっと考えていました。
(中略)
水と土しかありません。
人も段々老い疲れてきています。
私はここを最高に美しいとは思いません。
可能性に満ちているとも思っていません。

一連のセリフは「でも……折木さんに、紹介したかったんです」というように繋がる。

しかしながら、自分がこれからも関わり続ける地域の現状や現実に対して冷静に、現実的な視点での客観的な評価をした上で、骨を埋めようと考えているわけで、ここに至るまでの迷いは相当にあったのであろうと感じさせられるセリフでもある。

だからこそ名家の娘としての振る舞いを常に意識して暮らしている事にも気付かされる。
思えば20話の納屋に閉じ込められたときもそうだ。

あの氏子さんたちはわたしを知っています。
もしあの氏子さんたちに助けられたら、きっと誤解されてしまいます・・・!
今日、わたしは父の代理で来ました。
他の時や場所ならともかく、いまここで、折木さんと2人で居るところを見つかってしまったら・・・

これまた神社での出来事ではあるが、千反田家の名の及ぶ地域での出来事だ。
それまでの千反田えるの折木奉太郎への好意的というか積極的な感じとはまったく違う距離感を突きつけられたように感じた視聴者もいたのではないだろうか。
つまり、この時点で制服を着ているときの学生千反田えるとその振る舞い一挙一動が観察されるような名家の娘千反田えるの違いをチラリと見せつけられたのかもしれない。

逆にいうと、その名前の重さを背負ってこの土地に生きようとしているとも言えるし、あるところ、なんらかのきっかけがあってその覚悟をした事があったのかもしれない。

 

氷菓というアニメ作品の感想を検索してみると、この千反田えるというキャラクターは
「マスコットのようだ」「無機質さすら感じる」
というコメントも出てくるが、このように紐解いてみると根っこは根っこは名家の娘の名前を背負った人物であり、高校生をやっている千反田えるはある意味あとから手に入れた人格であるとも言えそうだ。
だからこそ一見薄っぺらく映るのかもしれないし、普段無意識のうちに抑圧していたであろう無邪気で無防備な一面ばかりが表に出てきていたからなのかもしれない。
それが許される環境が高校生活であり古典部であった…というだけなのかもしれない。